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「傷を愛せるか」宮地尚子

「傷を愛せるか」宮地尚子

読書好きの方々の間でひそかに?話題になっていた本を手にとってみました。

長く生きれば生きるほど、残念なことに傷は増え、深くもなり、傷ができないということがない。一方で、何かによって癒されもするけれど、人間の力や薬の力には限界があることを、これまで突き付けられて来たな・・と思います。保健師として地域で仕事をしていて関わる人びとは、もうどうにもならないところまで問題が深刻になって、傷が広がり深まってしまった人や家族が大半です。被虐待体験のある乳幼児から児童、パートナーからの暴力、高齢の親に対する子の暴力、職場での暴力・・相手の人格を認めず、尊厳を無視するこうした暴力は、様々な形で社会にあふれていて、傷ついた人たちが増えるばかりのように見えます。

日本経済が上向きではなく、失業者も溢れ、年金は減り税金は増え、給料は上がらず、それでも働かなければならない年月だけは増やされていく。フラストレーションがたまり、満たされない。それらは自他を傷つける方向に向かっている。

「傷を愛せるか」

この本を1度目に読んだときは、違和感?反発?そんな感情で満たされた気がします。

2度目に読んだときは、また違う印象を、「共感」を得ました。

なぜ反発のようなものを感じたのか今はわからないのだけれど。医師であっても、人のいのち、こころとからだを守ったり、助けたり、傷をいやすことはできない。そう思っているからかもしれません。

研究や教育の世界に生きる気持ちを表した「競争と幸せ」、、共感の嵐(何が共感するのかは読んでみてください)

「ヴァルネラビリティ (Vulnerability /脆弱性)から逃れられないのだから、受け入れて慈しみ、同時に闘い続ける・強くある必要がある」というが、それは多くに人には無理だよ、と思う。ヴァルネラブルな人はつけこまれる。(まったくその通りだ、とわが身を思う)

レジリエンスが低いから、トラウマ回復できない、外傷後は成長しなければならない、回復できないのはその本人が弱いからだ、のような方向にトラウマ研究が向かっている?そんな馬鹿な、と思うけれど、確かに研究の動向全体を見るうなずけます。トラウマ。PTSD。人的なものによるものとすれば、他者になぜそのような傷を負わせるのか、あなたは何様だ?と言いたいのだけれど、なくなりません。傷を負わされた人をレジリエンスが低いためだとして、傷を負わされた人の責任としていくようなことは、あってはならないと願います。

ところどころ、2度目は共感を伴いながら読了。

一部紹介-

・自分がだれにも連絡を取らず、だれからも連絡がないまま休日が過ぎると、世界にひとり取り残された気がして、自分なんて存在しなくてもいいんじゃないかと思ったりする。そういうときも、「これは明日の出会いの前の静けさなんだ」と思う

(「思える」と結んでいますが、「思う」として紹介したいと思いました。「思うことにしよう」という表現につながるほうが、励まされる気がするので。

・傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにそのあとを生き続けること。

 

こんな言葉で締めくくられると、私はちょっと苦しくなります。