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「夜明けを待つ」佐々涼子

「夜明けを待つ」佐々涼子

2023年4月14日のInstagram/Facebook記事で取り上げた、「エンド・オブ・ライフ」の著者のエッセイ。今日はこのエッセイを紹介したいと思います。2013年頃から書誌に公表されたものを集めた1冊。2022年末に脳腫瘍がわかり、以後闘病中の中完成させたと本書を読んで知りました。

エンド・オブ・ライフでは、終末期のがんで闘病される訪問看護師の森山さんを取材し、死を受け入れていく過程に寄り添われていたのが、佐々さんご自身が5年生存率の低い希少がん、グラノーマにり患することになるとは、誰にも想像しえなかったことでしょう。

私たちは日頃どうしても、自分はこれからも大丈夫と思って暮らしてしまいがちです。先日、働き盛りの同僚が目先で突然倒れてしまう場に遭遇しました。本当に一瞬の出来事でした。蘇生により一時的に一命をとりとめたものの、帰らずの人となってしまいまいました。去年のゴールデンウィークには元気で一緒に出かけていた愛犬も、今年はいません。いのちが終わる時は、これまで奇跡によって何とか維持していたからだの中のバランス(調和)が一気に崩れ転がり落ちてしまう時なのだろうと思います。

この本には、佐々さんご自身の病や治療(脳腫瘍以外の別の疾患)についての話から、取材し公表された諸書のテーマー 外国人技能実習生の現状/問題について、禅僧の生き方というもの、いのちや生きるということについて考えたこと、瞑想の体験を通して見出したことなど、2013~2021年頃の間に経験したり考えたりしたことが詰まっています。編集・校正しながら、彼女はご自身のいのちや気と向き合っていたのだろうと思うと、考えさせられるところがいくつもありました。少し紹介をしたいと思います。

文章を読むことで過去の経験が想起され、癒される。それが本がもつとても大きな力だと思います。「今宵は空の旅を」の章は、そんな文章でした。国際線の機長をされている方の話ー客席からであっても、離着陸時や、あるいは高度を上げて上空飛行をしている時、下に広がる国/町・大地の美しい風景を見ると、そこに大勢の人の生活があること、動植物がいのちを生きていることを感じられます。機長はまた違う風景を見ることができる、そんな機長から聞いた話。彼女はこのように締めくくります。

「行けない旅はどうしてこうも美しいのだろう。ようやく眠くなってきた。例を言ってZoomを終えると、夜のしじまに雨の音が戻ってきた」

手術の後、前日まで苦しんだ痛みを思い出せない自分に気づき、次のことに気づいたという。

「前日まであれほど苦しんだ痛みを私は思い出せないのだ。身体はそうできているらしい。だしぬけに悲しくなった。自分の痛みsら思い出せないのに、他人の痛みや苦しみをわかるはずがないではないか。この絶対的な孤独の中で私たちは生きている。どこかで私は他人の気持ちがわかると思っていた。だが、それは傲慢な考えだった。」

「エンド・オブ・ライフ」という本をまとめながら、ふと気づいたことについての言及。それに気づいたことで、生きるのが楽になったという・・。

「誰も死んだことがないから、この世に生きている人はみな死についてわからないのだ。(中略)どれほどの賢者であろうと、やはり生きている限り死などわからないのだ。そう思ったら生きるのが楽になった。いくら自分の外側を探しても答えは見つからない。自分の内側に戻って自分なりの生き方を見つけよう。そう思えた時、世界を旅して、僧侶たちに言われた言葉の意味がようやく腑に落ちた。今を生きなさい。自分の内側に戻りなさい」

ページを割いて書かれていた、技能実習制度と実習生の実態について。この制度は廃止される可能性が出ており、著者が取材したころのような24時間都合よく働く実習生はいなくなるだろう‥恐らく。(育成就労制度が果たして問題を解消することになるのかは疑問)日本語教師をしていた著者はまた、実習生に必要な日本語能力に言及しながらも、次のような考えにたどり着きます。

「いつの間にか日本語は生き残れるのかという不安に行きついてしまう。皮肉な話だ。しかし私には滅びるのは日本語のほうだと思えてならない」

 円安は加速し、日本が将来発展するだろうと考えられる要素が見当たらないため、今後もさらに円安傾向が続くのだろう。日本はどこへ行くのか。

20240427 Books 2 Yoake Sasa

 彼女が禅・瞑想を通して以下のように気づいたとき、きっとからだはこころや環境と調和が図られるのだと思っています。それは禅や瞑想以外の方法であったとしても。

「必死で生きていると思っていたが、何のことはない。自然がわれわれを生かしてきたのだ。必死になって生きようが、何もせずにここに座っていようが、私はこうやって生きている。私たちは自然の作った創造物のひとつだ。私という存在は、里山を濡らしている雨の一粒、時折、舞い落ちる雪片のひとひらと同じ、つかのま地上に現れ、やがて消えていく。懸命に生きているという状態から、ただ活かされているという状態にモードが切り替わると、十分力を抜いていると思っていた身体からさらに力が抜けて、鎧のようにこわばっていた肩の力が抜け、すとんと下がる。(中略)そのとき、私は無数の生命と呼吸で呼び合う生物のひとつとなった」

本当に自分に必要なものは何か。仕事に追われる日々の中、変わらない日常の中、「どうなってもいいや」などと言って自分のからだを労わらずに、酒やたばこ、思考を停止することなどによって自分をごまかしたりせずに、自分のからだとこころに問いかけて、自分の人生を幸せにするものに気づく。自分の人生を拘束するものはなく、自分の選択にかかっていることに気づく。本当にものが必要か?本当にその縁が必要か考えることの大切さ。

佐々さんは森に入ります。そこで、自分が動物に近づき、心がどんどん穏やかになり、

「心の完全な静寂が訪れたと思った(中略)森にいると、私の中から社会的なものが落ちて、ただの森に棲む生き物のようになっていった」

と自己観察されています。社会的な動物である人間が壮大な森に入れば、人間社会より大きな自然の法則下におかれ、社会と切り離される。これによって、社会にある価値観や規範、集団主義的な抑制のかかった・没個性をよいとする言動からも自由になる・・・そのことが、副交感神経を高め、リラックスできるのだろうと思います。(死体の気分を体験してみるために、焼き場に身体を横たえてみたという佐々さんには脱帽でしたが)

是非ご一読ください。そしてそのあと、自分自身に目を向けてみてください♪