文学者(障害者文化論)が「言葉」の使われ方について書いた話題の本をご紹介したいと思います。
専門が障害者文化ということで、ハンセン病や水俣病などの患者差別の歴史や人権の問題などに言及しながら、身近な問題として、「言葉が壊れて来た」ことについて書かれています。 「言葉」に関わる想像力、語彙力といったものが低下していること、権力を持つ人の権力や勢いが一つ一つの言葉を軽んじていることが、関連しているようでしょうか。いくつか本文を抜粋して紹介したいと思います。
人と人が議論できたり、交渉できたりするのは、言葉そのものに「質」としての重みがあるからだ。でも、いまは言葉の一貫性や信頼性よりも、その場その場でマウントを摂ることの方が重要らしい。(略)(一億総活躍、女性活用などのフレーズについて)こうした言葉は、中身があるのかどうかはわからないけれど、威勢の良さだけが価値を担保しているとも言える。(略)そうした言葉が、言葉を壊していく。(P8-9)
当たり前だけれど、環境や条件さえ整えば、誰の心だって壊れうる。だとしたら、「心を壊しにかかってくるもの」の方が問題だ。この言葉を知ると、人の心が壊れうることへの想像力のない人が社会のあり方を決めていくことの恐ろしさがわかる。ある人の「生きる気力」を削ぐ言葉が飛び交う社会は、誰にとっても「生きようとする意欲」が湧かない社会になる。(P28-29)
社会のあり方を決めていく、という一文は政治批判のようにも聞こえますが、これは組織や集団に置き換えてもよいでしょう。今、こころの問題があらゆる組織で起こっています。まずは、なぜ・何がそうさせたかを省み、周囲も変わろうとしなければならないのですが、「自己責任」という言葉が氾濫する日本社会では、こころを病んだり体調を崩した人自身に問題があるという風潮があるように思います。著者はこんなことも述べています。
「「「「「自己責任」という言葉があふれている現代は、いつ、誰が、どんな理由で、誰から虐げられるかわからない状況に突入している。ぼくたちは、「自分が理不尽な目にあったとき、どうやって抗うか」を考えながら生活しなければならないステージに立っているのだと思う。(略)そもそも僕たちは「理不尽に抗う方法」を知っているだろうか。「理不尽に抗う方法」を知らなければ、「理不尽な目にあう」ことに慣れてしまい、ゆくゆくは「自分がいま理不尽な目にあっている」ことにさえ気づけなくなる。「自己責任という言葉で人々が苦しめられていることを特に理不尽だともおもわない社会」を次の世代に引き継ぎたくはない。(略)「自己責任」という言葉が、「人を孤立させる言葉」だとしたら、「人を孤立させない言葉」を探し、分かち合っていくことが必要だ。(P196-197)
例えば、事実と異なる勝手な噂をしたり、SNSに書き込んで、特定の人を貶めるといったことが頻繁にみられます。その矢面に立たされる人ー理不尽な目にあった人 に落ち度があったはずだから仕方がないのだ、「自己責任」だとする風潮が確かにあります。さらに、理不尽な目に合ったという事実が、「虐げた」人ではなく「虐げられた人」の問題とされ、 孤立させられる。そんな図式があふれている。理不尽な目にあった人を見て見ぬふりをして、「同じようなことをされないようにしよう」と黙り込んで委縮していく社会。同調圧力の強い社会ほど、顕著なように思われます。
どれだけがんばっても報われなかったり、理不尽なかたちで傷つけられたりした経験を、「自己責任」という言葉で受け入れさせられてきた人たち。社会の在り方に怒ったり、困難な状況の中で助けを求めたりすることを「してはならない」と思い込まされてきた人たち。そうした人たちの目に、この社会を問い返そうとする人の姿が「無責任な振る舞い」「秩序を壊す乱暴な行為」として映ってしまうとしたら、これほど不幸なことはないと思う。特に近年、社会に蔓延している「緊縮」という風潮が、こうした事態に拍車をかけるのではないか。「国にお金がないのだから助けを求めるな」「自力で生きられる者だけが生きる資格がある」(略)こうしたムードに苦しめられた人の口から「自己責任」という言葉がこぼれてしまうのではないか。同じような境遇の人たちが、互いに牽制し合い、黙らせ合っていくのではないか。こうした負の連鎖を問う〈勇気〉を生み出す基盤を破壊してしまうのではないか。(P196-197)
今の日本社会に象徴的・・・。組織の中でも、メンタル不調を訴える人が増加している背景に、また、SNSで加熱する外国人(特に中国人や韓国人)への社会保障支給等への反論の背景に、「牽制し合い、黙らせ合っていく」(その結果として、誰も物を言えなくなり、その組織や社会が衰退していく)現状があるのかもしれません。
人を黙らされるための言葉としての〈自己責任〉〉。ここに問題があると声を上げようとすると、それはあなたの努力や能力の問題だと、その声を封殺するかたちで「自己責任」が湧きだしてくる。(略)この言葉は「他人の痛みへの想像力を削いでしまう」。「自己責任」には自らの行いの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかするべき」という意味が込められている。(P191)
恐ろしいことに、その通りであると思う。知らん顔をして、誰も声をかけようとしない。自分も同じようにならないように、自己防衛をすることに必死なのかもしれない。本書では、相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」での障害者殺傷事件や原発事故、女性差別、障害者が地域で暮らすことについてなど、様々なことに言及しており、とても興味深い内容になっています。ぜひ手にとっていただき、今身の回りで起こっていることをとらえなおしてみていただければと思います。私たちの健康についても、文学的視点からもとらえることに意義があると思います。

最後に、共感した部分を抜粋してご紹介ー
「隣近所」という言葉には、生々しい生活実感がある。「地域」には、その生々しさがない。(略)地域という言葉が実際には住み分けているけれど、あたかも共生しているかの印象を与えるマジックワードになりかねない(P82)
この社会は、特定の人たちの存在を拒絶する憎悪の感情を、露骨にあらわすことへの抵抗感が薄くなってしまったように思います(P87)
(障害者は生きている意味がない等の被告人の主張について)共鳴する声がSNSに溢れることは、「特定の人たちの尊厳を損なう言葉」が社会に蓄積していく点で恐ろしい。SNSは言論空間であると同時に生活空間でもあります。あのような言葉が生活圏に存在すること、またそうした生活に違和感がなくなってしまうことに、恐怖を覚えます。また、SNSに氾濫する言葉には反論しにくい点で恐ろしいと思います。匿名性にあふれる言葉にまともに向き合おうとすると、大事な論点がずれてしまいかねません。(P91)
匿名性のあるSNSなどでは、暴力的な言葉、相手を傷つける一方的な主張があふれている。そうした行為に慣れた世代の人たちはどのように感じているのでしょうか・・。大学で教えていた時、匿名で授業や教員等への批判(建設的ではなく、議論にもならない一方的な要求や不満)が多く、恐ろしく思いました。そこには、相手への思いやりも想像力も欠如していると感じます。
「人が生きる意味」について軽々に議論することはできません。(略)議論の行く末に責任のない人たちが、ある特定の人たちの「生きる意味」について議論すること自体、その「特定の人たち」にとっては恐怖だろうと思います(P92-93)(P118-119も関連)
最近、この社会は「安易な要約主義」の道を突っ走っている気がしてならない。とにかく速く、短く、わかりやすく、白黒はっきりとして、敵と味方が区別しやすく(略)そんな言葉ばかりが重宝され、世間に溢れている。(SNSについて)SNSのフレームに切り出された言葉は、物事の緻密で正確な「要約」になっているかというと、そうでもないことが多い。(略)正確な要約でも世界の一端でもないとしたら、果たして正体は何だろう。(略)「安易な要約主義」は、そうした想像力を削ぎ落して、「人間をとにかく数字化すれば世界を理解したことになる」という過信への傾きかねない怖さがある。こうした過信の一歩先には、「人間だろうが、世界だろうが、簡単に「要約」して理解できる」というもうしんがある。(P251-252)
最後の言及は、私たちの分野(保健師、公衆衛生看護/公衆衛生の学問領域)でも考えなければならない課題かもしれません。データ偏重の傾向や、住民との対話が薄れている現状があります。SNSは視覚的な効果がフォロワー数を押し上げます。キャッチな言葉、簡易な言葉、シンプルな文面ーしばしば危うい、いい加減な要約が見られます。そうした文章に慣れて、全文をわざわざ読む行為が省略された結果が、読書離れや、専門書を読まない専門職といった現象に反映されていっているのかもしれません。


