「死なれちゃったあとで」。テーマはとても重いのですが、文章がとっつきやすく、誰にでも起こる(起こり得る)身近なテーマであることを思い出させてくれます。病死、自死、心残り、悔い・・・
自分は、自殺未遂を見つけて助かったということは何度かありますが(看護師・保健師として担当していたかた)、自死を選択した親しい人の死を経験していません。前田さんが経験した「死なれてしまった」体験の具体的な物語には、一人ひとりの人生の物語が描かれているので、是非本を手に取って読んでいただけたらと思います。
死について考えるときは、生についても考えます。自死を選んだ人たちが、なぜその選択をしたのか、その人たちにとって「生」とは何だったのか。「生」の目的や希望、そのものの意味を見失い(失い)、そして「生」を続けることができなくなったということ。なんとなく、本書に出てくる人たちのその思いや状況が伝わります。「生」への執着のなさ。執着するほど、この世の中に期待もしていないし、例えば誰かに責任も感じていない。
死にたさを抱えながら、隠し通していた人たちのことを前田さんは「考え続けないといけない」と繰り返します。
「もしかしたら死なずに済んだんじゃないか」という後悔を捨てたくはない 。後悔を手放さない。
「何か自分にできることはなかったのか」と責任を感じてしまうのが(よく)ある。「よくあるやつだから、あまり考えすぎてもよくない」という考え方もあるが、それは「楽に生きようとしている」としか思えない。自分が壊れない程度でいいから、責任のごく一部でもいいから、引きずって生きていいんじゃないか。「自分には何もできることはなかった」で終わってしまったら、また別の誰かの死にたさを見逃してしまうかもしれない。
この世界からいなくなると、存在はなかったことにされていく。それはタブーであり、悲しみから立ち直ろうとする人間の対処方法だけれど、前田さんはそれを否と訴えます。
最後の対談も印象的です。後輩Dさんの遺書「情けない人生でした」ーこれは多くの人にある発想ではないかと思います。自死を選んだ多くの人の口からっ肥えて来そうです。これについての対談が良く、
「もっと社会を通さずに自分自身を見られていれば、こんな結果にならなかった。社会をものすごく高いところに設定して、そこから見つめちゃったから、自分を低く、情けない存在に感じてしまった。僕や僕より上の世代の人たち(1974年生~)はどうしても「まだこんなだぞ!そんじょそこらの努力じゃだめだぞ!」と言われて頑張れた最後の世代な気がする」
こうした時代の影響というのはところどころにあります。それを社会が個人の責任にしてしまったところがあります。他者と同じであることをよいとする日本の共同体文化の社会では、「情けない人生でした」と失望してこの世を去る選択をするのは、不思議なことではありません。
死なれちゃったあとで、だけでなく、それより前にも、それぞれが(本人、周りの人/生きている側)自分を語り肯定を得る繰り返しが、とても大切ではないかと思います。あとがきにもあるように・・。
「相手が話したいと思っていて、自分も話したいと思っていて、あとはそのきっかけを自分が作ればいいだけだったのに。もったいぶっている場合じゃあ、ないんだよ。そうやって後悔の積み荷がまた1つ増えていく。」



