繰り返し自傷行為を行い、たびたび「死にたい」に襲われ、自分の体がバラバラと感じる著者が、自分の内面や身体感覚を言語化し、自分を見つめなおす試みをした、これまでにないノンフィクションです。
彼女についたこれまでの診断は、白血病、ASD、双極性障害・・・。診断名だけではわからないそれぞれの人の内面世界。ケアに従事する人、同じような悩みを抱える人に。
彼女の内面世界を言語化してくれることで、理解につながっていくと思いました。だからと言って手助けできるかどうかは、彼女が言うように難しいかもしれない。ですが、知ることは決して役立たないではないかなと思います。そして、言語化できない同じような苦しみを抱える人たちにとってはどうでしょうか・・。どのようなことを感じられるか想像しかできませんが、紹介したいと思います。
自分がバラバラな感覚、自分の体の感覚が稀薄で、自分が自分でないような感じがしたりする一方で、ASD特性である感覚過敏(彼女の場合は聴覚過敏)、情報過多になると気分が悪くなる、色として見える(色の情報が洪水のように押し寄せてきて、その情報量に堪えられなくて疲労困憊するなどがある。ルーチンが崩れると具合が悪くなる、嘘がつけない、表面上の会話/雑談できない、相手の真意がわからない、相手に居心地の悪い思いをさせてしまう。
彼女が記述しているこうしたASDの特性は、対人関係をうまくできないことや環境に適応できないことで、しばしば二次障害をもたらします。また、ADHDやHSP(Highly Sensitive Person)も持ち合わせていたりということで、生きづらさは想像を超えていることでしょう。本書第1部(前半)にはる彼女の過去の体験、身体感覚や思い(内面世界)が細やかに、かつとても冷静かつ分析的に記述されています。第2部では、しばしば襲ってくる「死にたい」について、彼女が分析しています。なぜそのような思考にとらわれてしまうのか。
「ここまで書いてきてはっきりわかったことがある。わたしは庭に埋めた死体を掘り出す必要がある。かつて自分で殺した自分の気持ちを掘り出す必要がある。ああ、でもこれは考えただけでも大変な作業ではないだろうか。私は生きるためにわたしの気持ちを深く埋めた。それを掘り起こすのはすごく怖いことだ。だって生きていられないかもしれないから。そして気持ちを持ったままどうやって生きるのかを、わたしはとっくに忘れてしまっているだろう」
食べたものを(のどの奥に指を突っ込み)吐くこと、知らない男性と寝ること、自分を傷つけて苦しめることで「生きている」ことを確かめている。それは、自分の感情を繰り返しなかったことにしてきたから。そうして、自分の存在がどこにあるかわからなくなってしまったのを、苦しめることで自分のこの世界における生存を、実在を確認しているのだということに気づいていかれる様は、文字を通して読むだけでも苦しくなります。
そして彼女は本書の中で自分を振り返り、他者に「謝られていない」から、自分の存在を否定されていると感じ続けてきたといいます。一方で、自分はどうかというと、自分も謝っていない。自分もできていないと振り返ります。自己表現をできず、「他者のために自分を差し出すやり方でしか他者と関われなかった」のを、相手のせいと腹を立てていく様もみられ、大きく揺さぶられている様子が伝わります。そうして、初めて「自分のための料理」をつくったときに、以下の結論にたどり着きます。
「許す」とは他者に何かを与えたり、他者についての自分自身の思いや考えることを変えることなのではないのだった。「許す」とは、私であることを楽しみ、喜び、愛し、わたしの未来を願って祈ることだった。

彼女の精神世界はとても深くて難しい。過敏な触覚、聴覚が及ぼす影響、自分の内面がバラバラに感じられるその違和感。理解しようとしても、限界がある。この社会は自分の利益が優先となり、他者をおろそかにしてしまいがちです。傷ついた体験、それを聞いてもらえない体験、自分が良くないのだろうかと思わされ埋めることにした彼女のように、時に言葉にするほうが疎まれるなかで、傷ついた体験とその時の自分の感情を「庭に埋めた」経験のある人はきっとたくさんいることでしょう。でも、埋めたままでは、結局事態は改善しないばかりか、幸せにはなれない。自分の人生を生きる支障になる。だから、「庭に埋めたものは掘り起こさなければならない」。それが、新しい人生のスタートだから。そのメッセージは強烈に残ると思いました。
是非一度、少し元気な時に読んでみて頂ければと思います。そして、感想を是非共有していただければと思います。


