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発酵する民 - 変わりゆく人びと

発酵する民 - 変わりゆく人びと

今日はドキュメンタリー映画の「発酵する民」(2020)を観に小谷村へ行ってきました。制作から3年。もうご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

2011年原発事故後の脱原発のムーブメントを機に、気づきを得て変わりゆく人びとがつながり、脱原発とは別の行動に発展し、継続していった。それが「盆踊り」だった。映画では、この「盆踊り」が、様々な菌の共存により豊かなものが生まれる「発酵」と重ねて描かれ(語られ)、一人ひとり異なる人々が地域でつながり、互いを尊重しながら共生する姿が映し出されていました。

というのが、私が受け止めたこの映画の主題。原発事故を機に、多くの人の生活や生き方、価値観が変わったと思います。人間と環境の関係、人が地球環境に左右される・・地球環境に生かされている・・地球に息づく生物(微生物を含む)と共存して生かされている・・そんなことに気づく人は気づいた、第1歩。

第2歩となったのは、COVID-19のパンデミック。微生物や菌、人体を死に至らしめるウィルスもまた、日ごろから私たちの周りに存在して、調和を保ち共存している。その調和が崩れたのが今回のパンデミックという見方ができる。無理な都市一極集中の暮らしがもたらした災害。人間は社会的な存在。社会や自然環境、他の生物と影響しあいながら、この地球で生きている存在。ここでまた、多くの人の価値観が変えられた。本当に大切なもの、大切にしたいこと、自分がありたい生き方も、多様化していった。「オンライン」によって働き方が変わったことも一役買った。日本経済の行き詰まりも背景にあると思う。

今、私たちはさらに変わることを求められている。と思っている中で、この映画はそうした人びとに起こった最初の大きな変化を表象化してくれたように思います。出演者の皆さんが、コロナ禍では何を思い、今何を思うのか、聞いてみたいと思いました。

otari movie

 ↑↑平野監督さんが来てお話くださいました。とても良いお話でした。

2011年、大地震と原発事故が起こったとき。そこには、一人ひとりの物語があったと思います。映画の出演者の方々の語りに映し出されていたように。そうか、神奈川県に住んでいても、「怖い」「逃げたい」「逃げなければ」こういう状態だったのだ、と改めて思いました。私の場合、当時厚生労働省に勤務していたので、放射線がどうであれ、出勤することしか頭にありませんでした。朝から夜まで仕事をし、帰宅がてらスーパーに寄るも、水をはじめあらゆる食料品が欠品しており(日中買い占めが起こり、加えて物流が途絶えて物不足になった)、食料難民になりました。4月から1か月間省内の対策本部付けになり、省庁間の伝達や情報収集などに追われ、その後老健局に戻り、東北3県の被災状況と介護保険制度の運用状況の把握のために、局長他と視察・ヒアリングに行き、津波被災地にて交配した街の姿に衝撃を覚えたことが記憶に新しいです。土日に福島へボランティアに通い、健康調査を行ったりしていました。何か自分が役に立てないか、それだけでした。私もあれ以降、そしてパンデミックを経て、価値観や規範がガラガラと崩れ落ちて、だから今このような活動を始めている。

とにもかくにも、鎌倉では<盆踊り>を始めた人たちがいた。

その場にいなければ、どのような心と心の反応があり、そのようになったのかまではわかりませんが、突き動かされたのだろうと思います。原発事故後「危険」が叫ばれる日本で、盆踊りをみなで踊ることで、「平和」をそこに生み出したかったのかもしれない。どなたかのセリフに、「今、この輪の中を平和で満たしたい」というようなものが語られていたと思うのですが、そこに「盆踊り」を始めた動機が集約されているような気がします。

この映画のなかでも出てくるパンづくりや味噌づくりには、菌の働きが欠かせません。その作業のなかで、人間が菌のいのちをいただき、いのちをつないでいることを実感されている様子が映画から伝わってきました。そうなんですよね、人間も同じ1つの生命体。大きさや複雑さは異なるけれど、いのちを頂いているんですよね。人間の腸には100兆個もの菌が共生しており、よくも悪くも働いています。ですが、人間に備わった免疫システムなどが、通常であればちゃんと悪いものを処理してくれています。病気は、感染性疾患もがんも、そのほかの病気も、からだの調和が崩れたとき、本来のシステムに異常が起こり働かないことによって起こるのです。そういうことに、原発事故、そしてコロナのパンデミックを通して気づき、医療へのかかりかたや日常生活を変えていったり、養生を取り入れたりし始める人が増えていったのが、この10年だったように思います。

もう1つ、私たちの協会の考え方と共有できると感じたのは、「地球暦」。

  (→ https://heliostera.com)

「年月日何時何分」 で「今」をとらえない。「地球/自然環境(=とりあえずここでは、季節、気候、日の長さなど)」の移り変わりに自分たち人間側が合わせて生きていく。その移り変わりに意識を向けられるようにつくられたのが、「地球暦」(=私の解釈)だそうです。

そうそう!その姿勢(謙虚さ)が大切で、自分をとりまく「自然環境」に目を向けた生き方、「自然環境」と調和をとるような生き方は、人間のこころとからだへの負担がぐっと小さくなる。と私は思うのです。都市での生活が人のこころとからだに負担をかけ、例えば精神疾患も生活習慣病も多くなるのは、昼も夜も季節も関係なく、しんどくても眠くても、からだがどんな声を発していても関係なく、無理してでも長時間働き続けるような生活は、負担以外なにものでもありません。私たち(協会)は、そんな生き方、いのちをはぐくむ生き方を一緒に見直し、この考え方とケアのあり方を普及していきたい。

長野に暮らしていると、Iターン組の人たちともよく知り合います。皆さん共通して「長野県は賃金が安い(看護師や保健師の賃金は日本一安いレベルと言われます)」「でも、畑で食べるものを少し育てたり、近所の人と交換したりしながら、今の稼ぎの範囲に生活レベルを合わせればいい」「ストレスが減って、自然を身近に感じて幸せだなあと思う」と言われます。いのちにいちばん大切なことが何か?に気づいて行動を始めた人たちが、Iターン者にとても多いと感じています。

この映画でも、そのような暮らしを送る人びとの姿を描いていると思いました。

hakkou poster

最後にもう1つ。この映画でも「多様性」という言葉も出てきていました。多様性を受け入れること、他の生命体(自然や微生物・菌など)との調和と共生。皆さん、これを目指そうとしているんですよね。

日本社会はどうしても、多様性を認めず、画一的で周囲と同じであることが「協調性がある」とされ、価値を置かれます。そうではない。いつまでも個人が自立し尊重される社会に成熟しないなあと思うのです。大学で教員をしていたとき、学生たちが「他者評価」をものすごく気にして、意見を言うのを恐れているので、どうしてなのか聞いたことがあります。するとある学生が「だって先生、私たち、ずっと他の人と比較されて、他の人と比べてどうかということを基準に評価されてきたんです。他の人と違うことを言っていいのか、不安です」と言い、周囲の学生がうなづいていたのが印象に残っています。コロナ禍でも話題になった全体主義と同調圧力。これがすなわち、共生、とか調和、ということではないんですよ、本当は。共生とか調和というのは、異なる存在の他者、異なる意見や考え方などを尊重し受け入れるということ。でも、日本では異なる意見や行動は排除されがちです。この映画では、「互いを尊重する共生」がメッセージとして伝わっていてよかったなと思いました。

人の暮らしも意識も変わっていかなければならない時代が来ていると思います。女性が先に変わり始めるんですよね、どうも。男性のほうがなかなか変わらないのはなぜか?

今夜はこのくらいで。(十分長すぎる・・)

また、この映画と関連した投稿をするかもしれません。

機会があればぜひ映画をご覧ください。

=福島で放射線防護文化の形成を目的としたアクションリサーチを行っていました。ご参考までに♪=

https://tokuteikenshin-hokensidou.jp/opinion/004/008/